Sep 28, 2009
コピー用紙の種類に
コピー用紙の種類によって値段が変わる。これ何だと思ってしまうが、店によってはどのサイズも同じ価格というゴトドイトダ。そのためには。コピー用紙の高いにもかかわらず、コピー機を使用したいと思わないということだ。最もコンビニもので与えることなく、家では、何の問題もないということだが。私たちの会社も経費をできるだけ削減する必要が工夫しています。たとえば、コピー用紙の購入も二転三転し、現在に至っています。以前に某店より購入しています。その試みは、ホームセンターの安価なコピー用紙を大量に購入。しかし、最終的に安価な製品は、粗悪な紙に何度も購入した後、元の店よりも、以前よりもやや安価なコピー用紙を務めていました。
3月11日の午後、筆者は仕事場の本棚から崩れ落ちる大量の書籍から身をかわし、テレビをつけた。まもなく緊急災害特番が流れ、東北の沿岸地域に大津波が押し寄せる瞬間が映った。あぜんと画像を眺めるうち、筆者の頭の中に昨年頻繁に訪れた港町、石巻の情景とそこに暮らす友人たちの顔が浮かんだ。
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震災発生後の約1週間、彼らとの連絡が途絶えた。何度か現地に行こうと試みたが、被災地でのガソリンの手当てなどさまざまな障害で断念せざるを得なかった。ようやく筆者は、震災後約1カ月後の4月9〜10日の両日現地に入ることができた。小説の舞台に選ぶほど好きになった街、そしてそこに暮らす人々が今なにを感じているのか、たどってみた。
●息をのむ
筆者は、在京の友人T氏(石巻市出身)とともに自家用車で4月9日午前2時に東京を出発、東北自動車道を経て一旦仙台市宮城野区に立ち寄った。T氏の実家は津波に飲まれてしまったため、姉の住む同区にいったん支援物資を降ろし、ここを拠点に避難所回りをするというT氏と別れた(この友人については、後にさまざまな場面で触れる)。
同区は7日に震度6強の余震に見舞われたばかりであり、道路の至る所が陥没。信号が点いていない交差点も多く、大都市・仙台も被災地なのだと痛感した。
仙台を発ったあと、三陸道の石巻港ICを経て、午前9時前に石巻市に入った。折しも雨脚が強まり、市内の道路やすれ違う車両のほぼ全てが泥まみれだった。市内中心部に向かう道路の両脇、特に小さな河川の川岸にがれきが目立ち始める。やがて、市街地に向かう交差点に差し掛かると、渋滞にぶつかった。先を見ると、雨具を着た警官が手信号で誘導している。筆者はふと助手席の窓に目をやった。すると、店舗脇の空き地に不自然な形で放置された乗用車があった。
テレビや新聞の大震災報道で何度も目にした津波に流された車両の姿だった。いざ眼前に実物があると、ステアリングを握る手に力がこもり、肩が強張っていくのを感じた。同時に、息をのんだ。
現地入りする前の段階で、石巻の友人たちからはこう聞かされていた。
「市内の至る所に津波で流された車両が放置されている。震災後4〜5日はクルマの中に収容待ちの遺体が放置されていた」
また、彼らからはきつく言い渡されていた。
「こっちは地獄だ。覚悟して来い」
筆者が初めて目にした車両の持ち主の安否は知る由もなかった。だが、この放置車両を見た瞬間、街の人々が震災で過酷な体験をしていたことを皮膚感覚で知ることになった。
●変わり果てた街
先に当欄で触れた通り、筆者は地元紙・石巻日日新聞を訪れた。その後、小説の取材のために歩き回った中心部に向かった。
立町という中心街で銀行の駐車場に車を放り込み、筆者は街に歩き出した。赴きのある古い商店街、あるいは漁業関係者や街の企業の従業員たちが足繁く通った飲食店街は、ほぼ全てが津波に飲み込まれた。ヘドロと重油、潮の混じった刺激臭が周囲を覆う。地元民によれば、晴天の日はこれが埃に変わり、街中に流れる。被災者が一様にマスクを付けているのはこのためだ。
筆者が取材やプロモーションで街を訪れると必ず足を運んだ鮮魚店は、店舗の1階部分に固定した業務用大型冷蔵庫が津波によって浮き上がり、屋根を破ったと聞かされた。中心街の店舗は文字通りの壊滅状態だった。
馴染みの鮮魚店は、新たに銀行融資を受け、営業再開に向けて準備に追われていた。だが、地元関係者と盃を重ねた料理店は、店舗改装直後というタイミングで津波に飲まれた。店のご主人とはいまだに連絡がついていない。
また、同じ地区で筆者が頻繁に出入りしたショットバー、ナイトクラブは営業再開のめどが立たず、ここで働く従業員の先行きについても未定だと聞かされた。筆者は口が卑しく、かつ、酒を飲み歩くのが常人の数倍も好きな性分だ。小説の取材で東北各地を回ったが、この石巻ほど地元関係者と酒を飲んだ土地はない。新鮮な海産物がふんだんにある。気風の良い漁業関係者から海の話を聞きながら酒を飲むことは、至上の喜びだった。
現地に根を張り、仕事を続けてきた関係者が理不尽な津波の被害に遭ったことを思うと、変わり果てた街の風景に接し、胸が潰されそうな思いにかられた。
街を歩くうち、何人かの知人と再会した。全身ヘドロまみれになりながらも、笑顔を返してくれる人も少なくなかった。勝手にこの街が好きだと言ってみても、筆者はしょせん他所者にすぎない。この土地に根を張り続ける人達に接したとき、返す言葉に困った。カメラを持参していたが、とても彼らにファインダーを向けることはできなかった。ジャーナリスト失格である。
●漫画も被災
筆者は小説執筆のほか、漫画原作の創作をなりわいとしている。この街は、大好きな漫画家、故・石ノ森章太郎氏と縁が深いことでも知られる。同氏の作品や原画を展示する「石ノ森萬館」も津波を被った。
また、立町を中心とする中心街に設置された石ノ森作品のキャラクター像も軒並み被害を受けた。仮面ライダー、サイボーグ009で育った世代故、何度も萬画館に足を運んだ。また、筆者の漫画担当編集者も同館で頻繁にイベントを開催していた経緯がある。このため、この街の漫画への思い入れは人一倍強いと自負している。
人づてに同館の貴重な資料が被災したことを聞いた。漫画は街の有力な観光資源でもある。漫画界の片隅に身を置く人間として、1日も早い復興を願わずにはいられない。
●自衛隊/米軍の献身
筆者が石巻を訪れたのは、震災から約1カ月経過したタイミングだった。石巻日日新聞の記者によれば、自衛隊や地元民、あるいは全国から駆け付けたボランティアの尽力により、主要な道路の通行は比較的早い段階で可能になったという。
筆者が街を歩いたタイミングは、ちょうど店舗や一般家庭が内部に流れ込んだヘドロをかき出しているところだった。商店街の歩道に出された商店や家庭のがれき、ゴミを自衛隊員や米海兵隊員が協力して大型トラックに積み込んでいる光景を目にした。
被災地の道路事情が比較的早期に好転したのは、間違いなく自衛隊の尽力によるものだと現地で強く認識した。インフラの復興のほか、人命救助、あるいは行方不明者の捜索についても自衛隊が果敢な活動を行っていた。
以下の写真は、翌10日に撮影したものだ。
門脇、南浜地区は、津波によって大半の住宅が流されたうえ、同時に発生した火災により、市内で最も被害が大きかった地域の1つだ。筆者が友人T氏とともに訪れたときは、行方不明者の一斉捜索日にあたり、多数の自衛官が黙々とがれきを押しのけ、人の姿を探していた。
この地区では、ヘドロと重油、潮の混じった臭いに焦げ臭さが加わる。社会科の教科書で見た太平洋戦争で空襲に遭った街の姿がオーバーラップした。生まれて初めて接する惨状を前にぼうぜんと立ち尽くしていると、Tが口を開いた。このとき、T氏と筆者の共通の知人の弟が同地域で行方不明になっていると初めて聞かされた。
筆者はその人物を直接知っているわけではなかったが、目の前に広がる惨状のどこかに、若き命が眠っていると考えると、不意に涙が溢れた。いたたまれなかった。この間、Tはずっと隊員たちの姿を追い、小さな声でつぶやき続けていた。
「ありがとうございます」
今回の大震災では、政府の支援体制のもたつきが目立つ。もたつきというよりは、被災者の足を引っ張るような行動、言動さえ見受けられる。現地でも頻繁に政府を手厳しく批判する声に接した。ただ、T氏と同様、多くの被災者が自衛隊の体を張った活動には感謝の声を送り続けていた。
「ありがとうございます」
T氏がつぶやいた小さな声が、この日1日、筆者の耳から離れることはなかった。
行方不明だった若い男性は、筆者が帰京したあとの16日午前、彼らの手によって発見された。
→相場英雄氏の震災ルポ、次回は4月28日掲載予定
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